園長ブログ

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2018.11.18

無題 (2013.03)

私の手元に、1948年(昭和23年)に書かれた子どもの絵日記があります。当時小学2年生だった愛知県安城の女の子が書いたものです。日本の敗戦から3年、戦後の混乱や物資の不足の中での庶民の暮らしをうかがうことのできる絵日記です。
 田植えの時期には学校は農繁期の休みになり、子どもたちはいろいろなお手伝いに明け暮れたようです。日記の裏表紙には、休み中の1日の予定が書いてあります。「おきるじかん六じ」に始まって「ねるじかん九じ」。「一、おてつだい」として「おそうじ、せんたく、おとうとのおもり、おやつつくり、おぜんだて、おさらふき、おつかい」などとあります。
 「せっけんをかいにいきました。十五円のをかいました。そしておうちにかえって、おせんたくをしました。一ばんはじめにわたしのようふくをあらいました。二ばんめはおかあさんのをあらいました。そのつぎはそのつひでぶみちゃんのおむつをあらっているとおかあさんが「ありがとう、あらっておげよう」とおっしゃったので、あとののこりをあらってもらいました。」その頃の洗濯は、庭のつるべ井戸からたらいに水をくみ、洗濯板を使い、固形せっけんで洗いました。
 また別の日、「おひるごはんがすんでおかあさんとひでぶみちゃんとわたしと、まちへおつかいにいきました。おさかなをかいました。そのねだんは三十円でした。わたしは、きょうのばんはおさかななので、うれしくなりました。」
 食卓のおかずに魚が並ぶことは稀な時代でした。その頃の人々が、想像もしなかったであろう便利で物の豊かな暮らしができるようになりました。しかし「豊かになればなるほど、足らないものが増えていく」と言われるように、豊かになった実感や満足感は今の私たちにはなかなか出てこないように感じます。寿命が伸びてたくさんの物に囲まれた暮らし。それだけでは私たちは幸せにはなれないようです。何をどのように受け止めるか、人生や生活の「質」が問題なのだと思います。
 当たり前のように繰り返している毎日の暮らしの中に、おかげさまとか、喜びや感謝の思いを持てるかどうか。そういう心が育たない限り、不足感を抱えたままで人生の終着点まで行くしかないのでしょう。
 仏法を聞く、仏さまの智慧に導かれるとは、そういう「心の眼」を育てていただくということなのだと思います。子どもたちも幼いうちから、仏さまの教えに親しみ、心豊かに人生を生きてほしいと願います。